これがバレエ?

 音楽が、音の発されるところから切り離されたのが一世紀ちょっと前。いま、音楽はそこからさらにはなれて、持ち運び自由なだけでなく、光を伴って、かわいらしく、動きます。

 バレリーナが群舞をするとき、同時に音楽も演奏したら、どうだろう。しかも、各人はしっかり自分に振り付けられた動きを守りつつ、音も同様に、それぞれのパートを奏でるとしたら。

 動く、コンパクトなステレオたるローリーが、まさにそれを実現する。どれだっておなじ形態、個々にはっきりしたキャラクターがあるわけじゃない。でも、それが一斉に動きながら音を発し、バレエに、音楽に、なる。マシンでありながらマシンを忘れさせる、文字どおりの、動きと音楽のアンサンブルが、「バレエ」としてたちあがる。 

小沼 純一

ダンスと音楽、このふたつはそもそもひとつだった

 Rolly----これをただ持ち運びできるコンパクトなステレオだと思ってしまうだけだと、話はそこで終わってしまう。ロードされた音楽を再生する。それとわかるスウィッチやヴォリュームはほとんどな く、本体を回せば、音量が変わり、しかも自動でしっかり元の位置へと戻る。大事なのは、この動きであり、かたちだ。ただの機能だけならi- Pod なりにスピーカをつけさえすればいい。あるいはパソコンにスピー カをつないだっておなじだ。でも、Rolly は違う。タマゴのかたちをしていて、それだけなら、ふうん、タマゴね、なのだが、実際に回転し、スピーカが腕のように動くのを見たなら、反応は急に変わる。何よりも、かわいい、のだ。もちろんそう感じないひともいるだろう。いるだろうが、生物とは違った不器用さや、ヒューマノイド型を志向したロボットではない玩具っぽさが、逆に、親近感を抱かせるのだ。しかも 細い二本の光がいろいろに変化する。くるりと回って腕を広げ、音楽とともに発光する。たしかに近年のステレオはこういう光の、色の機能を備えていたりはするが、こんなふうに動きとともにとなると、一気にステレオや再生装置のレヴェルから別のステージへの移行が感じられるから不思議だ。

 個々のRolly は連動しているわけではない。だから、同時併行に動くわけではない。もし一緒に動かそうとすれば、同時にスウィッチをONにしなければならない。或る意味、それはとても不自由だ。 だが、逆にその不自由なところから、あたかもそれぞれが個性を持った単体であるかのようにみなして、バレエを、群舞を踊らせてしまおうと いうのが、今回の企画だ。動きについては、Rolly はプロじゃない。だって、もともと動くことが中心に作られたものではないのだから。音楽が再生されることがメインで、動きや光は付加価値。それを逆転応用するのがバレエというわけである。Rolly のお得意は、ディジタルなデータに存しているので、ヒップホップだったりするのだけれども、敢て、なめなかな動きを持つバレエが目指された。得意技を披露するだけではなくて、Rolly にも努力してもらおうというわけ。

 さて、そこでさまざまな問題が浮上してきた。その一端はたとえばこんなふうだ。
 バレエの群舞(コール・ド・バレエ)を十台ものRolly でやる ためには、どうやって同時にスウィッチをONしたらいいのか?
 音楽を、どんなふうに、各Rolly に割り振り、ロードしたらいいのか?
バレエのなめらかな動きをどうしたら、Rolly に振りつけられ るのか?
 大きさがタマゴ程度のRolly をしっかり見てもらうためには、どういう舞台装置が必要か?

 結局、Rollyのバレエのために、ひとつのプロジェクトが立ち上げられた。しかもただのシゴトとしてではない、参加メンバーが何らかのモチヴェーションを抱き、ひとつの方向に進んでゆけるようなものにしよう、と。

 バレエの経験とジャズ・ダンスの経験を持ち、コンピュータにも詳し いAさん。学生でありながらも、しっかりバレエ教室で指導的な立場にあるBさん。フランスから偶々休暇でやってきているイン ターネットの専門家Cさん。旋回の意であるピルエットとか、爪先立ちをするピケとか、どういうふうに動きをつけられるのか、 Rolly とヒト----自分自身の身体や経験----を照らしあわせて考えてゆく。Rolly がどう動いていくのかをコンピュータで図示したステップなど、これは本体とは別のかわいさ、おもしろさがあ る。

 Rolly のバレエを見て、自分で踊ってみよう、と考えるひとも いるんじゃないか。具体的に動きをRollyにつけていると、この 動きが先にこちらのアタマにあったのか、それともRolly があってこそ発想されたのか、わからなくなってきたりする。日本人が考えることっておかしいなあ。彼女たちがRolly を前に考えていることはさまざまだが、それらさまざまなものが統合されてひとつところに収斂してゆく。それがRolly のバレエだ。Rolly はタマゴ程度の大きさなので、十台で動くステージもけっして大 きいものではない。むしろ、その限定された大きさのなかに工夫が凝らされていると言っていい。つまり、Rollyの変化する光がどんな ふうに反射するか、その反射から見えてくるものはどんなものか、 Rolly の動きをスムーズにするためにはどのような素材をステージとし て使うべきなのか、照明の変化はそのようにつけたらいいのか、等々で ある。そしてRolly のバレエが、ただ、ロボットが動いている、という現象としてではなくて、もっと別のものが感じられてこそ、これをやる意味がある。ただの実験ではなく、これをとおして「べつの/ほ かの」何かがもたらされてこそなのだ。ダンスも音楽もそうだろう。ひとが動く。楽器から音をだす。それだけだったら、ともに身体=物理的な現象にすぎない。それが何かをもたらしてくれるからこそ、ダンスも音楽もエンターテインメントになるし芸術にもなる。喜怒哀楽をこちらに喚起してくれることでこそ、存在価値がある。そうしたことを、しかも、機械で、ロボットでやろうとするからこそ、このプロジェクトに携わる人たちのモチヴェーションがあがり、熱意が共有される。一緒にやっているよろこびがある。

 十台ものRolly が一緒に同時に動き、音楽を発するその「場」をつくってゆく。しかもそれぞれのRollyは、1人1人の音楽家のごとく、しっかり自分のパートを持っている。だから、Rolly たちが動き、空間が広がれば、音楽の形成される場も変化する。いま、 ダンスと音楽とは別々で、踊るひとと演奏するひとは役割が違うけれども、このふたつはそもそもひとつだった。そのダンスと音楽が一緒にあったありようというのを、Rolly のバレエは提示してくれるし、そこからまた、ひとがなぜダンスに、音楽に惹かれるのか、それが生じているときの空間、場の、あるいは時間の意識がどんなふうになっ ているのかを、ここで通常とは異なった視点から捉えることができるようになるかもしれない。

小沼純一